若宮 住吉神社-若宮と称えられた「住吉神社」

若宮と称えられた「住吉神社」
住所: 大阪府豊中市若竹町1-22-6 : (06) 6863-0025

若宮 住吉神社について


当神社は、「若宮」の冠を持つ住吉神社です。

周辺の地名(鎮座する地名)を冠にした住吉神社とは、一線を画した御鎮座の経緯を持っています。

住吉大社の創祀の故実(神功皇后摂政11年・卯年・卯月・卯日の御鎮座)同様に、当神社は元和元年、卯年・卯月・卯日に住吉大社の勧請を受けて創祀・御鎮座されました。

元和元年の卯月といえば「大阪夏の陣」のさなかにあり、当地大阪界隈を揺るがす一大事でした。
こうした大きな阻害要因の影響を全く受けずに、住吉大神のご鎮座の故実そのままに創祀されたのは、当神社が別格の位置づけで御鎮座された住吉神社だったことに起因します。

住吉大神、とりわけ神功皇后とゆかりが深い神使とされる卯(兎)像も残され、住吉信仰を正しく継承した幾多の証が伝承として残されています。

こうした卯「兎」像の存在や伝承は、神功皇后ゆかりの住吉神社の一部に見られます。

当地周辺の住吉神社では、当神社にのみ残されているものです。

当神社が「若宮」と称えられてきた経緯には、いくつかの要素が関係しています。

ひとつには、住吉大社を元宮に、相対する関係として、当地を住吉信仰を正当に継承する宮「若宮」として位置付けられたことに因むと伝わります。

また、当地には幾多の御子神伝承(神功皇后と応神天皇の伝承)が残されており、この伝承に起因したとも伝えられます。
当地の前身は正八幡宮だったとされ、この折に御子神(応神天皇)をたたえた「若宮」の称号が、そのままに残されたとも考えられます。

いずれにしても、当神社が御鎮座された元和の初頭、周辺の神社は織田信長の焼き打ちで壊滅状態のまま、再建がままならない状態でした。

当神社はこうした中にあって、周辺地域で唯一無二の「住吉神社」として、当時生誕するに至ります。

こうした事由から、当神社は周辺一帯の住吉信仰を網羅する総社格の宮と位置づけられ、「若宮」「若宮さん」というだけで当神社のことを指したと伝わります。

当神社が創祀されたのは元和元年五月のことであり、国や当地大坂を揺るがす一大事「大阪夏の陣」のさなかにありました。

大きな政治的配慮を受けての創祀は、当神社が極めて重要な神社だった証といえます。
(豊臣家滅亡のわずか四日後に創祀される)

この重大事のさなかにもかかわらず、住吉大神の故実・卯年・卯月・卯日の創祀(住吉大社と全く同じ創祀の故実)を成しています。

「若宮」(大事な御子神の意)の冠を持つ、正当で別格の住吉神社といわれる由縁です。
先人達の創祀への比類ない結束と尽力は想像に難くなく、御鎮座時の喜びに満ち満ちた人々の姿が偲ばれます。

当地に住吉神社が創祀される以前の古の伝承も、様々伝わっています。

社史などの文献は罹災・紛失し、記録にこそ残りませんが、伝わる伝承からは実に興味深い史実がはっきりと浮かび上がります。

奈良時代の高僧との関わりに端を発した当地は、源平との深いつながりを経て、千年以上の長きに渡る信仰対象上の要所だったことを物語っています。

祖先の奮迅の努力によって今日に継承され、幾重にも及ぶ人々の祈りを受け止めてきた当地に、尊崇の念を禁じえません。

当地は、摂津国豊島郡きっての名門集落、小曽根郷里(六ヶ村)の北東「鬼門」封じの要所に位置します。
摂津国豊嶋郡は、大化の改新(645年)後の律令国家の制定によって生まれました。

当地の氏地のひとつ「北条」の地名にあるように、「都」に似た条里制・跡の名残があります。
平安京「都」同様に、郷里形成にともなって、古くから鬼門方位への信仰が生じていたと考えられます。
当地に古の伝承が伝わるのは、こうした鬼門方位への信仰が、古代においてすでにおこっていた影響からと思われます。

平安時代には、当地一帯に摂関家の所領が郷里の山地に広がっていました。

荘園目代の下向や、大名の陣屋があえてこの郷里に設置されたのは、戦略的な重要集落であった証だといえます。

当地を含めた北方に広がる丘陵の存在は、攻防上に優れている他、南方には大阪湾にそそぐ川に恵まれます。
海路・交通に至便な立地条件だったことも、名門集落の郷里形成に、大きく起因したものと考えられます。

往時は、敷地面積が少なくとも現在の2倍~2.5倍以上を有していたと考えられ、周囲には堀がめぐらされていました。
当地の丘陵は木々で覆われ、いわば山城のような様相を呈していたと考えられます。

神社のすぐ南に残る水溝は、当時の堀の名残としてかすかにその面影を見ることができます。

当地を境にして、小曽根郷里の北側には丘陵が広がります。
この丘陵の存在は、外敵との攻防上、十分な戦略的な要所足り得たと考えられます。

当地自身はこの丘陵・北方字「向山」とよばれた場所に位置し、文字通り小曽根郷里を北方方位から、南下に一望できる高台になっています。

軍事的な意味合いも備えた、重要な場所の一つだったと考えられます。

当地は、摂津国豊嶋郡の小曽根郷里(六ヶ村)の北東・表鬼門の要所に位置します。
郷里の南西・裏鬼門には、長島住吉神社が配されています。

平安京では、表鬼門に比叡山延暦寺、裏鬼門には石清水八幡宮が祀られています。
郷里の鬼門方位と神社の配置には、あきらかに都に似た相関・因果関係が見て取れます。

さらに特筆すべき点は、小曽根と寺内の祠を創建母体とした、疫病鎮護の神を祀る隣接神社が、当地そのものを守護地としていることにあります。

当地や郷里に対し、こうした幾重もの鎮護・防護対策を施していたのは、当地及び郷里が、非常に重要で且つ神聖な場所だったことを裏付けています。