当地は、小曽根郷里の北東鬼門封じの要所に位置し、古くから鬼門信仰の対象地だったと考えられています。
鬼門方位の守り・魔除けのために、大小様々な鬼瓦が当神社の社殿に配されていたと思われます。
「神兎」像同様、元文年間にご造営されたご社殿(もしくはその付近)のものと思われる鬼瓦が残されています。
神紋の巴をあしらった瓦細工も残され、古の信仰の一端を垣間見ることができます。
ご正殿前両脇に、二対の狛犬が安置されています。
これは、親子の狛犬だと地元には伝わります。
こうして二対で狛犬がそれぞれ独立して存立し、それが親子だと伝わる神社は全国的にみてもほとんどありません。
当地の皇子神の「八幡神」、親神の「住吉神」の親子神の創祀にともなう御社の象徴として、建立設置されたものと考えられます。
もともとどちらか一方の狛犬は、当神社前身の八幡宮の狛犬だった可能性も高く、住吉神の創祀で加えられた狛犬が並べられた可能性もあります。
小曽根地区で以前使われいた旧獅子頭。
しばらく美術館に保存されえいましたが、その後所在不明となっていました。
神社の倉庫内で偶発的に発見でき、その後、総代の方にご修復いただきました。
現在は社殿に安置しています。
当神社の二の鳥居脇に聳える高燈籠は、すべて江戸年間に奉納されました。
この3m超の高燈籠は、現在並んで四基聳え建っています。
この高燈籠の存在は、総社の想いを込めて創建した当神社に対し、当時の崇敬者の敬神の高さを今に伝えるものでもあります。
当神社に現存する他の燈籠も、ほとんどが江戸年間に建立されたと視認することができます。
現在は使用されていませんが、上総国・飯野藩の藩士名が数多く刻まれた手水石が残されています。
摂社・稲荷神社前の燈籠にも、飯野藩士の名が数多く刻まれています。
同藩が大阪定番の時代、当神社の氏地「浜」に陣屋を設けたことから、当神社とのつながりを残す痕跡としてその姿を残しています。
飯野藩は、周辺神社に寄進を行っている記録が残ります。
陣屋立地の氏神にあたる当神社には、例大祭などに相応の奉納があったものと思いますが、このあたりは残念ながら不詳です。
当地で盛んに力比べが催されたと伝わっています。
当地には、二十四貫(重さおよそ90kg)の力石があったと伝わります。
写真の石は、当時の力石かどうかは不明ですが、力石の一つだった可能性があります。
また、当地には能勢の横綱から、巨石の奉納があったと伝わりますが、現存していません。
小曽根地区の禰宜人による獅子舞。
古式の伝統芸能を今に伝えています。
秋の祭礼時には、樂車や神輿、だんじりも練りだし、賑やかに執り行われます。
当神社には、土俵場があったと伝えられています。
祭礼日には、盛大な奉納相撲が催されていたとされています。
この奉納相撲は、一里四方から人々が押し寄せて、境内はごったがえしたとされています。
大阪府北部・現在の能勢あたりから横綱・関取が来て、大変賑やかな相撲行事だったと伝わります。
小曽根の常光寺の藤平泰巌住職が詩を書き、額に納めて当神社に掲げられていたと伝わります。
残念ながら現存はしていません。