若宮 住吉神社-若宮と称えられた「住吉神社」

若宮と称えられた「住吉神社」
住所: 大阪府豊中市若竹町1-22-6 : (06) 6863-0025

若宮 住吉神社について

大僧正「行基」が興した石連寺との関わり

sekirenzi

当地の西隣に、石連寺があったとされています。

石連寺は、天平年間に行基が興した荘厳な寺院と伝わります。
現在も、豊中市若竹町一丁目のあたりを総じて、石連寺と地元では呼ばれます。

行基は、寺院・道場の建立に著名ですが、溜池、溝、架橋なども積極的に行ったことでも知られ、当地の北方に広がる池々の存在は、行基の開墾の名残ではないかと考えられます。

その昔、当地にあったとされる御社は、現在地よりも西側だったと伝わっており、この石連寺に間近に隣接していたか、もしくは石連寺の領域そのものに含まれていた可能性があります。
当地とこの石連寺との間に、深い関係性が垣間見えてきます。


<石連寺ノ跡>

大字石連寺及ヒ隣地ナル大字寺内ニ亘レリ
古老ノ口碑ニ依レハ天平年間僧正行基此ノ地ヲ開キテ伽藍ヲ創立シ天竺山石連寺ト號シ寺門壮観ヲ極メ坊舎千軒ノ多キニ及ヒケレハ世ニ金寺ト称セラレ又ハ千軒寺ト呼ハレ
其ノ境内ハ広大ニシテ本地及隣地寺内ヲ包容セシモ平清盛ニ破却セラレテ終ニ廃寺トナレリトイフ

参照:小曽根村誌

上記の伝承によれば、石連寺は広大な敷地を有していたとされ、寺内(当時の寺内=現在の若竹町一丁目の一部と若竹町二丁目あたり)にまで広がっていたとされています。

また、平清盛に破却されたくだりは、当地の「清盛伝承」にぴたりと符合してきます。

平清盛との深い関わり-当地の厳島神社-

石連寺は、平清盛に攻められ滅したと地元には伝わります。

一方この当時(平安時代)、当地一帯の山野は、摂関家の荘園が広がっていました。

しかしこの摂関家の荘園は、隆盛を極める平清盛による、実質支配・統治下にありました。
摂関家の近衛基実が早世した後、基実の妻でわずか11歳の平盛子(平清盛の娘)が、摂関家の荘園を遺領として引き継いだことが明らかになっています。

基実の子で氏長者の近衛基通もまた、平盛子の養子扱いとなっており、元服後は清盛の六女・完子を正室にします。

近衛基通は、かろうじてその立場を、絶対的な権力を有す平家の外戚という形で維持するに留まりました。
摂関家はこの頃、平家すなわち平清盛によって、完全に実質支配下におかれていたのです。

itukusima

当神社の記録には、平清盛が手厚く信仰し、氏神崇拝を極めた厳島神社の存在が明らかになっています。

清盛によって滅したとされる石連寺跡は、清盛によって領地と化した可能性が高く、宗教的要素を厳島神社の招聘によって払拭させたと考えられます。

さらに、当地一帯の山野が摂関家の荘園だったという史実から、当地そのものが摂関家の荘園に隣接していたか、もしくは該当地そのものだった可能性を示しています。

当時、この荘園の実質統治者は清盛であり、自らの威光を示す宗教的象徴・厳島神社を招聘し、創祀・御鎮座に至ったものとみて間違いありません。

この2つの故実・背景には、平清盛と当地を結ぶ色濃い接点を如実に示しており、当地の厳島神社の創建事由と完全に符合します。

1170年頃のことと考えられますが、平清盛と厳島神社と当地を結ぶ、密接な接点を物語ります。

「大阪府全志」より

住吉神社は北方向山にあり・・・(中略)・・・末社に稲荷神社「厳島神社」あり・・・

「大阪府史跡名勝天然記念物」より

住吉神社・・・(中略)・・・末社に稲荷神社、「市杵島姫神社」あり・・・

「石連寺村明細帳」より

氏神住吉神社・・・(中略)・・・稲荷大明神・「弁財天」祠二社・・・

市杵島姫神社(いちきしまひめじんじゃ)について

市杵島姫神は、厳島神社の宗像三女神の一柱の神です。
神が斎く島、すなわち厳島と同義語になる神であります。

当地の弁財天について

中世以降になると、当地には弁財天の祠の存在が記録に残ります。
中世以後の神仏習合時代、厳島神社の御祭神・像三女神と弁財天は同一視されました。

当地の厳島神社は、中世以降弁財天に姿を変えて、ひそかに残されてき
たと考えられます。