治承五年(1181年)に清盛が亡くなった後は、平家は衰退の一途をたどります。
寿永二年(1183年)、倶利伽羅峠の戦いに敗れた平家は、その影響力が急速に低下して、平家一門は都落ちを余儀なくされます。
この折、平家の後ろ盾を得ていた摂関家の近衛基通は、平信基に行動をともにするように促されます。
しかし、近衛基通はこれを拒否し都にとどまります。
時を同じくした1183年、近衛基通は当地一帯の荘園(垂水西牧)を、自らの氏神・奈良・春日社に寄進します。
平家によって自らの身を安堵されてきた基通が、この源平の争乱における平家凋落の機に迫られ、手を講じた寄進とみて間違いありません。
この寄進によって、春日社から目代(荘官)が下向し、当地の管轄を行います。
荘園の惣社として、春日若宮社の社殿が移築されます。
平家の庇護下にあった当地の厳島神社は、この折封殺・封印されたと考えられます。
復活を見るには、暫くの時間を要することになりました。
暫く治世は混乱し、近衛基通は平家が都落ちした後は、御白川法皇の側近となります。
平家を都落ちに追いやった木曽義仲は、御白河法皇にクーデターを実行し、このとき近衛基通は摂政を解かれます。近衛家は当時、九条家と熾烈な対立関係にありました。
後、寿永三年(1184年)に、義仲は源義経、範頼に討たれ、やがて源頼朝の鎌倉幕府(建久三年・1192年)樹立へと至ります。
源平の争乱期において、源氏勢力は厳島神社を敵対せず、保護したとされています。
当地の厳島神社は、かろうじて源氏勢力の手によって、闇の中にひそかに残されたと考えられます。
(八幡三神の一柱の神・市杵島姫神を祀り、後に弁財天へと姿を変えたと思われます。)
時代の流れは清和源氏へと大きく移行していきます。
当地の伝承には、当神社の前身が正八幡宮だったとするものも多く伝わります。
八幡神は、清和源氏が氏神とし、とりわけ厚く崇敬したことで知られます。
源氏の実権支配によって、当地一帯に守護・地頭職が置かれていたことが明らかであり、源氏勢力の手によって、当地は八幡三神を祀る社へと姿を変えていったものと考えられます。
八幡三神とは、主神・応神天皇、神功皇后、宗像三女神(市杵島姫神・奥津島姫神・多岐津姫神)の三神です。
厳島神社の御祭神は宗像三女神であり、八幡三神に含まれる御祭神です。
当地の正八幡宮は、当地前身の厳島神社の御祭神を包含する形で、八幡三神の招聘がなされ創祀されたものと考えられます。
ひそかに厳島神社が残されてきたのは、このためだと思われます。
現在の当地には、摂末社に八幡社を配します。
しかし古い記録をたどっても、八幡社の記載は全く見られないことから、当地のご正殿として正八幡宮が存在していたのは明らかです。当地には、源氏勢力との強い結びつきを残す伝承もまた、伝わっているのです。
一方、源頼朝が行った検地では、小曽根郷里に住吉神領田(荘園)が存在していたことが明らかになっています。
またこの神田は領主が不明な状態のまま、長らく時代が経過していたことを、以下の資料は示しています。
これは、大変興味深い事象です。
源頼朝時代の検地帳(太田文)ニハ小曽根郷里ノ一部住吉神田トシテ登録セラレアリ其後豊太閤ヲ経テ徳川ニ至ル迄領主司配者等分明ナラス
参照:小曽根村誌
摂関家の荘園が構成される前には、当地一帯は様々な寺社の領地が混在していました。
およそ5000年前、当地の丘陵の眼前まで、海が広がっていたとされています。
当地の氏地「浜」の地名にも見えるように、当地一帯と海の存在は色濃くつながっており、付近でしじみやハマグリなどが数多く出土するなど、海の存在を今日に伝えています。
海の存在とつながりの深い住吉信仰は、もともとこのあたりには、そうとうな昔の時代より強く根付いていたものと考えられます。
もともとこの地域には、土着に住吉神への信仰が根付いていたと土地柄でした。
春日社荘園体制下にあっては、惣社(春日社)への年貢徴収を嫌って、乱暴狼藉が頻発していたことも明らかになっています。
次第に台頭した武家勢力なども相まって、微妙な政治的なバランスの上に、信仰形態も混成し、幾分かの対立もあったものと考えられます。