若宮 住吉神社-若宮と称えられた「住吉神社」

若宮と称えられた「住吉神社」
住所: 大阪府豊中市若竹町1-22-6 : (06) 6863-0025

若宮 住吉神社について

織田信長の焼き打ちを免れたと思われる当御社

戦国乱世の時代になると、織田信長が天下布武のもと、全国統一を目指し頭角をあらわします。

織田信長が全国統一を目指す最中、茨木城主・荒木村重が突如主君信長に反旗を翻します。
明智光秀がおこした謀反の四年前、天正六年・西暦1578年のことになります。

このため当地一帯は戦火に巻き込まれ、当地の周辺の神社は焼き打ちにあって、甚大な被害を受けることになります。

とりわけ、周辺の住吉神社は壊滅的な打撃を受けます。

<織田信長の焼き打ち>

服部穂積住吉神社・・・1578年焼失・・・再建は1623年

長興寺住吉神社・・・1578年焼失・・・再建は1670年

椋橋総社・・・1578年焼失・・・旧知の復元ができず

原田神社・・・1578年焼失・・・再建は1652年

しかし、信長のこの焼き打ちは、天照大御神、八幡神、牛頭天王などを祀る一部の御社は除外し保護したとされています。

当地は少なくともこの焼き打ち事件のあった天正年間には、正八幡宮の御社が公然のもとして建っていたと伝わります。

八幡神を祀る当地は、周辺で多発した焼き打ちの影響を全く被らなかったと考えられます。
むしろ、信長は自らの祖とした平家縁の聖地でもある当地ことは、積極的に擁護した可能性もあるといえます。

当地界隈を安堵する多量の禁制の発布

しばらく続くことになる戦乱の世の下、当地の石連寺村(現若竹町一丁目あたり)に対し、禁制がさかんに発布され続けることになります。

禁制とは、大名などの権力者が、禁止事項を公示した文章のことです。

石連寺村に発布される禁制は、乱暴狼藉や略取、放火などについて禁じたものがほとんどであり、これは明らかに村落一帯を外敵から守り、安堵を保証する権力者の意向が見て取れるものばかりであります。
天正七年(1579年)から慶長十九年(1614年)までの間、その数実に八通にものぼり、周辺集落にあって群を抜く特異な多数量といえます。

禁制を得るためには、多額の金銭を該当の大名に献じるか、大きな政治的意向が働かない限り、簡単に発布されるものではないとされます。

なぜこれだけ多くの禁制が石連寺に発布されたのか詳細は不明ながら、村落安堵の陰には、当地を神聖視・重要視したことが、一助となっていた可能性が十分に考えられます。

<福島正則・浅野幸長・池田輝政禁制・・・石連寺渡邊家文書より>

禁制         せきれん寺

一、当手軍勢甲乙人等濫妨狼藉之事
一、男女によらす、人捕事
一、放火之事
右条々、堅令二停止一訖、若於二違反輩一者、可レ処二厳料一者也、仍如レ件

慶長五年
九月廿三日
                         羽柴三左衛門尉(花押)
                         浅野左京大夫(花押)
                         羽柴三左衛門夫(花押)

<石連寺に発布された禁制>

「滝川一益」禁制・・・天正七年(1579年)二月十三日

「明智光秀」禁制・・・天正十年(1582年)六月七日

「福島正則・浅野幸長・池田輝政」禁制・・・慶長五年(1600年)九月二十三日

「池田利隆」禁制・・・慶長九年(1604年)十月十八日

「板倉勝重」禁制・・・慶長十九年(1614年)十月日

「森忠正」禁制・・・慶長十九年(1614年)十一月六日

「徳川家康」禁制・・・慶長十九年(1614年)十一月十三日

「豊臣秀頼」黒印状・・・年歴不明十月十八日