戦国乱世の時勢とともに、当地一帯の春日社の荘園態勢は、形骸化し弱体化します。
また、信長への謀反の当事者・明智光秀に与したことで、秀吉に領地を没収されることになります。
一方、荒木村重の謀反の戦火以後、信長の住吉神社への焼き打ちによって、土着の住吉信仰も壊滅的な状態が続いていました。
春日社の荘園体制が崩れ始めたことも相まって、周辺一帯では、住吉信仰の復権・復活、そして再建機運は非願ともなり一気に高まったものと考えられます。
当地はこうした期待を一身に浴び、人々の大きなうねりによって、住吉神社の招聘・創祀に向かったものと考えられます。当地前身の八幡神の祖神が住吉神であり、こうした深い縁・関係から、当地への住吉神社の勧請へと、大きくこぎ出していくことにつながったと考えられます。
大阪夏の陣の緊張状態の最中、時は慶長二十年・元和元年(1615年)に、当神社は住吉神社として御鎮座・誕生をむかえることになります。
豊臣家が滅亡した五月八日、創祀はそのわずか四日後、五月十二日のことでした。
戦火混乱の治世にあって、この創祀には大きな政治的配慮があったことは、間違いないと考えられます。
慶長十九年(1614年)十一月に発布された禁制。
この禁制によって、大坂夏の陣の最中の混乱の中、当神社の御鎮座は安堵されたものと考えられます。
参照:石連寺渡邊家文書
石連寺村を中心に、当地周辺は徳川方に与しました。
この禁制は、それを謝した家康の意向を、土井利勝が奉者となって発布を受けたものだと考えられます。
(1615年)大坂夏の陣の折に、家康が当地隣接の観音寺(寺内町)に、勝利を祈願し寄進したとされる燈籠が残されています。当地界隈と家康を結ぶ、確たる証と見ることができます。
徳川家康は、住吉神社(佃島の故実にあるように)との間柄は良好で、当地の創祀にも少なからず良い影響を与えたものと考えられます。
かくして、この慶長二十年・元和元年には、未だ周辺の住吉神社の再興は果たされていない中、当神社は周辺広域を網羅する無二の住吉神社として誕生することになるのです。
周辺広域の多くの人々の期待を一身に浴びた、総社格の御社だったといわれる所以は、こうした経緯から生じています。
当神社のことを指して、「元宮」「若宮」の相対伝承が数多く語られます。
この伝承は、勧請を受けた住吉大社を元宮とし、相対する関係として、当神社を若宮と呼んだことに因むとされています。
単に御社が若いという意味の若宮ではなく、住吉大社に準じ正しく信仰を継承する宮(若宮)として、「若宮」の冠が付託されたと伝わります。
この伝承を裏付けるように、当神社は住吉大社の創祀にちなむ卯にまつわる故実を、忠実に継承・批准しています。
当神社は、大坂の陣の戦火の最中にも関わらず、住吉大社の創祀の故実同様、卯年、卯月、卯日に忠実に創祀されました。
これは、大きな外的阻害要因をはねのけてまで、御鎮座の故実にこだわった証といえます。
また、住吉大社に見られるように、住吉大神の神使卯「兎」像が、当地に三羽残されています。
こうした神使「兎」像が残される住吉神社は、全国的に見ても住吉大社をはじめ、一定の格式のある御社に限られています。
さらに、住吉大社の摂社「大海神社」や「若宮八幡宮」の御祭神と、当地における御祭神がかさなっており、こうしたことも住吉信仰の正当性を示す深い証ともいえましょう。
現在の当地境内に聳え建つ、3m超の高燈籠は、総社の風貌・痕跡を今に伝えているように思えます。
当地摂末社の厳島神社の御祭神が、一時期豊玉姫神(とよたまひめのかみ)となっていることも大変興味深い事象です。(小曽根村誌より)
豊玉姫神は、大海神社の御祭神であり、大海神社は、住吉大社の宮司家の氏神を祀る神社で、住吉大社の摂社となっています。
不思議なつながりを感じざるをえません。