ツキを呼び込む うさぎと桃の社

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伝承

当神社並びに当地に残る伝承をご紹介します。

大僧正「行基」が興した石連寺との関わり

当地は、荘厳・壮大な石連寺があったとされる処になります。

石連寺は、天平年間に行基が興した寺院と伝わります。
現在の豊中市若竹町一丁目のあたりは、皆「石連寺」と自らの地名を呼称します。
※石連寺は当神社の氏地・小曽根集落6か村の中の1か村にあたる。
※当神社の鎮守は石連寺村に立地

行基は、寺院・道場の建立に著名ですが、溜池、溝、架橋なども積極的に行ったことでも知られ、当地の北方に広がる池々の存在は、行基の開墾の名残と考えられます。

当時、当地の丘陵はこの石連寺の中心地だった可能性が高いと考えられています。

当地と石連寺の深い関係性が伝承の起こりとなります。

大字石連寺及ヒ隣地ナル大字寺内ニ亘レリ
古老ノ口碑ニ依レハ天平年間僧正行基此ノ地ヲ開キテ伽藍ヲ創立シ天竺山石連寺ト號シ寺門壮観ヲ極メ坊舎千軒ノ多キニ及ヒケレハ世ニ金寺ト称セラレ又ハ千軒寺ト呼ハレ
其ノ境内ハ広大ニシテ本地及隣地寺内ヲ包容セシモ平清盛ニ破却セラレテ終ニ廃寺トナレリトイフ

参照:小曽根村誌

石連寺は広大な敷地を有していたと記され、寺内(当時の寺内=現在の若竹町一丁目の一部と若竹町二丁目あたり)にまで広がり、千の坊舎があったと記されています。

平清盛との関わり-当地の厳島神社-

石連寺は、平清盛に攻められ滅ぼされたと伝わります。

この当時(平安時代)当地周辺には、摂関家の荘園が広がっていました。

この摂関家の荘園は、隆盛を極める平清盛の実質支配・統治下であったことと、石連寺の破却の間に深い因果関係が見えてきます。

摂関家の近衛基実の早世後、基実の妻でわずか11歳の平盛子(平清盛の娘)が、荘園を遺領として引き継ぎます。

基実の子で氏長者の近衛基通もまた、平盛子の養子扱いで、元服後は清盛の六女・完子を正室にします。

石連寺破却後、当地も平家の統治下になります。

当地伝承の記述に「厳島神社」が記されます。

清盛によって滅ぼされた石連寺跡に、一族の氏神である厳島神社を招聘したものと考えられます。

1170年頃のことと考えられますが、平清盛と厳島神社と当地を結ぶ密接な接点が浮かび上がります。

「大阪府全志」より

住吉神社は北方向山にあり・・・(中略)・・・末社に稲荷神社「厳島神社」あり・・・

「大阪府史跡名勝天然記念物」より

住吉神社・・・(中略)・・・末社に稲荷神社、「市杵島姫神社」あり・・・

「石連寺村明細帳」より

氏神住吉神社・・・(中略)・・・稲荷大明神・「弁財天」祠二社・・・

※市杵島姫神社、弁財天は厳島神社と同義といえます。

平家凋落で生じた春日社の荘園

治承五年(1181年)の清盛没後、寿永二年(1183年)、倶利伽羅峠の戦いに敗れた平家は、次第に都落ちを余儀なくされます。

この折、平家の後ろ盾を得ていた摂関家の近衛基通は、平信基に行動をともにするように促されますがこれを拒否し都にとどまります。

機に乗じた近衛基通は、1183年当地一帯の荘園(垂水西牧)を、自らの氏神・春日社に寄進します。

この寄進によって、春日社から目代(荘官)が下向し、当地の管轄を行います。
荘園の惣社として、春日若宮社の社殿が移築されます。

平家の庇護下にあった当地の厳島神社は、敵対関係になり、封殺・封印に近い状況に追い込まれたと考えられます。

源氏の知遇を得た「正八幡宮」の当地

暫く治世は混乱し、平家を都落ちに追いやった木曽義仲は、御白河法皇にクーデターを実行。
このとき近衛基通は摂政を解かれます。近衛家は当時、九条家と熾烈な対立関係にありました。

そして、寿永三年(1184年)に、義仲は源義経、範頼に討たれ、源頼朝が鎌倉幕府(建久三年・1192年)を樹立。

源平の争乱期に、当地の厳島神社は八幡三神の一柱の神・市杵島姫神を祀り、後に弁財天へと姿を変えたと思われます。

八幡神は、源氏が氏神として厚く崇敬したことで知られます。

当地一帯には鎌倉幕府の守護・地頭職の存在が明らかであり、源氏の知遇によって、当地は八幡三神を祀る社へと姿を変えます。

当地に正八幡神宮の伝承が残される由縁です。

八幡三神とは、主神・応神天皇、神功皇后、宗像三女神(市杵島姫神・奥津島姫神・多岐津姫神)の三神。
厳島神社の御祭神は宗像三女神であり、八幡三神に含まれる御祭神。
厳島神社の御祭神を包含する形で、八幡三神の招聘がなされ創祀されたものと考えられます。

鎌倉時代、氏地に「住吉」神田

源頼朝が行った検地で、氏地集落の小曽根郷里に住吉神領田(荘園)が存在していたと記されています。
この神田は領主が不明な状態のまま、長らく時代が経過していたと、以下の資料は示しています。

<源頼朝の検地>

源頼朝時代の検地帳(太田文)ニハ小曽根郷里ノ一部住吉神田トシテ登録セラレアリ其後豊太閤ヲ経テ徳川ニ至ル迄領主司配者等分明ナラス

参照:小曽根村誌

数千年前、当地の丘陵まで、海が広がっていたとされています。
当地の氏地「浜」の地名に名残がある他、実際に付近でしじみやハマグリが数多く出土。
海の存在を今日に伝えています。

伊邪那岐神が禊ぎ祓いをなされた、住吉の澄んだ海が氏地に広がっていました。

戦国の焼き打ちを逃れる

戦国乱世の時代になると、織田信長が天下布武のもと、全国統一を目指し頭角をあらわします。

この頃から江戸時代に至るまで、戦乱の渦中にあって、何度も何度も不思議な程に当地(石連寺=現若竹町1丁目あたり)は庇護を受けます。

天正六年・西暦1578年、茨木城主・荒木村重が突如主君信長に反旗を翻したため、当地付近も戦火に巻き込まれ、周辺の神社は焼き打ちにあって、甚大な被害を受けます。

とりわけ、周辺の住吉神社は壊滅的な打撃を受けます。

<織田信長の焼き打ち>

服部穂積住吉神社・・・1578年焼失・・・再建は1623年

長興寺住吉神社・・・1578年焼失・・・再建は1670年

椋橋総社・・・1578年焼失・・・旧知の復元ができず

原田神社・・・1578年焼失・・・再建は1652年

信長は八幡神への焼き討ちはせず庇護したとされ、当時の当地「正八幡宮」は難を逃れたものと考えられます。

加えて、当地(石連寺=現若竹町1丁目あたり)の庇護を命ずる数多の禁制の存在が、当地の重要性や神聖性を一層深く浮き彫りにします。

石連寺(当地)を安堵する多量の禁制の発布

禁制とは、大名などの権力者が、禁止事項を公示した文章のことです。

石連寺村に発布される多数の禁制は、乱暴狼藉や略取、放火などについて禁じたもの。

明らかに村落一帯を外敵から守り、安堵を保証する権力者の意向が見て取れるものであり、 天正七年(1579年)から慶長十九年(1614年)までの間、その数実に八通にものぼります。

周辺集落にあって群を抜く特異な多数量。

禁制を得るためには、多額の金銭を該当の大名に献じるか、大きな政治的意向が働かない限り、 簡単に発布されるものではありません。

なぜこれだけ多くの禁制が石連寺に発布されたのか詳細は不明ながら、 当地の神聖性や重要性が、禁制に大きく起因しているのは間違いなさそうです。

例)<福島正則・浅野幸長・池田輝政禁制・・・石連寺渡邊家文書より>

禁制         せきれん寺

一、当手軍勢甲乙人等濫妨狼藉之事
一、男女によらす、人捕事
一、放火之事
右条々、堅令二停止一訖、若於二違反輩一者、可レ処二厳料一者也、仍如レ件

慶長五年
九月廿三日
                  羽柴三左衛門尉(花押)
                  浅野左京大夫(花押)
                  羽柴三左衛門夫(花押)

<石連寺に発布された禁制>

「滝川一益」禁制・・・天正七年(1579年)二月十三日

「明智光秀」禁制・・・天正十年(1582年)六月七日

「福島正則・浅野幸長・池田輝政」禁制・・・慶長五年(1600年)九月二十三日

「池田利隆」禁制・・・慶長九年(1604年)十月十八日

「板倉勝重」禁制・・・慶長十九年(1614年)十月日

「森忠正」禁制・・・慶長十九年(1614年)十一月六日

「徳川家康」禁制・・・慶長十九年(1614年)十一月十三日

「豊臣秀頼」黒印状・・・年歴不明十月十八日

若宮住吉神社の創建

信長への謀反の当事者・明智光秀に与したことで、当地周辺の春日社の荘園は、秀吉に領地を没収され弱体化。

一方、荒木村重の謀反により、信長の焼き打ちによって、土着の住吉信仰・神社は壊滅状態が続く。

こうした中にあって、当地は元和元年(1615年)住吉神社として石連寺村の向山に創建。

時代背景を整理すると以下のようになります。

当時の当社のご鎮座は偉業という他なく、「若宮」と特別の名で讃え尊崇されてきた伝承に符号しています。

<徳川家康が石連寺に発布した禁制>

慶長十九年(1614年)十一月に発布された禁制。

この禁制が、当神社の御鎮座の重要性を物語ります。

参照:石連寺渡邊家文書

若宮に込められた信仰

若宮といえば当神社をさしたといわれています。

これには3つの理由が考えられます。

勧請元の住吉大社を本宮とし、相対して当神社を若宮と呼称したようである。

創建日にも、住吉の神の故実である卯への深いこだわりがあることから、当時の人々の創祀への深い信仰がにじみます。

当社は、若宮にふさわしく、住吉大神の神使とされる「うさぎ」が残される神社です。

現在までの歩み

正保五年(1648年)には、上総国飯野藩の陣屋が当神社の氏地に設けられます。境内には飯野藩から寄進をうけた、手水石や燈籠が残されています。

文政四年(1821年)に、当地に福寿院という宮寺が建立されます。
福寿院は、岡山・津山城主・森忠正の内室、大蔵姫の法名が福寿院だったことに由来。
明治に入り、廃仏毀釈により廃寺となりました。

罹災があって荒廃した時代もありましたが、氏子・崇敬者の有志が立ち上がり、再建を果たしてきました。

境内地は往時の1/3ほどになりましたが、美しい風格が今に伝わります。